ことばの覚書帳
2005年1月1日

2005年1月1日(土)  謹賀新年

皆さん、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

といった決まりきったことばで新年は始まる。
こうして同じ時期に同じことばを話したり、書いたりするという現象は、
個性重視を重んじるこの時代にふさわしいとは思えない。

例えば小学校で、

「 新年を迎えるにあたってふさわしいことばをあなた自身で考えなさい」
「年賀状は何のために書くのですか?」
「新年だからといって、何か新しいことが始まるわけではないのに、なぜ人は騒ぎたがるのか?」
「あなたらしいこの時期の過ごし方を考えてみましょう」

というような授業があってもいいかもしれない。

また、そもそも「あいさつ」とはどういう意味があるのか考えさせる授業があってもいい。
当たり前とされていることを疑うこと、
これこそが科学的精神の支柱である。

すべての科学的発見の秘密は、
まさにこの「すべては疑うに値する」
という古代ギリシアの教えにある。

宗教を疑ってもいい!
人間の存在を疑ってもいい!
いや、「存在」そのものを疑ってもいい!

科学的精神の前にはタブーなど何ひとつない!

かの寺田寅彦は、
「科学者は物分りが良くてはいけない、頭が悪いくらいでいい。」
といったようなことを書いている。

一方では、「普通」に生きていくためには、
このような「物分り」の悪さは不都合である。
非効率的である。

わからなくても、わかった振りをして泳いでいけば、
「お行儀の良い子だ。」
「しっかりしているね。」
などと言われて可愛がられる。

自分が子供の頃、
こうしたダブル・スタンダードには大いに悩まされた。
「大人は一体何を考えているのか?」
と、大人の思慮の浅さに憤慨したことは一度や二度ではない。

まあ、不器用な子供だ、と言ってしまえば簡単だが、
近年、日本の理数系離れは、
こんなお行儀の良い子供を求めてきた日本の社会の構造それ自体にあるのではないか、
などと勘繰ってしまう。

当たり前とされていることをひっくり返してしまうようなエネルギーが無いと、
何も新しいことなんか生み出すことはできない。

そんなエネルギーを持った人間が育ってくれば、
これからの日本は面白くなるはずだ。

ただし、
当たり前とされていることは、
一旦は飲み込まなければならない。
食わず嫌いでは判断のしようがないからだ。

「アマチュア」は、
知っている曲を好きだという。
知らない曲やジャンルは嫌いだという。

多くの場合、「好き嫌い」は知っているか知らないかに支配されている。
人間は未知のものに対して恐怖感を持つのが自然である。
ゆえに未知のものに対して嫌悪感を持つことが多い。

「自分の人生のプロフェッショナル」を目指すのならば、
まず知ることから始めることだ。

何を知るべきか?
知るべきことも自分で発見するものである。

何ゆえ知りうるのか?
それは「ロゴス=ことば」によって知りうるのである。

「ロゴス」は40億年の地球の歴史の中で、
生命が獲得してきた生存のための武器なのである。

当たり前のように使っている「ことば=ロゴス」の力を知ることによって、
有意義な人生を掴み取ろう!

見上潤 미카미 준 Mikami Jun Миками Джюн