ヘドロと翼
今月も、また出していない。うちの子供の通信教育の添削教材。「添削出さなきゃ通信教育の意味がないでしょ。もうやめようよ。自分でやるだけならドリルで十分でしょ。」という私。「でも、ちゃんと毎月見てはいるんだから。やめるのはイヤ。」と言い張る子供。かくして、今月もバトルを経て、ためらいながらコンビニでお金を払い込む私がいる。 上田学園の話をし、そして我が家のバトルの話をすると、いろいろな親御さんがご自分のお宅の話をしてくださる。家で過ごしているお子さんの話を。 たとえば通信教育。 たとえば、語学学校。 たとえば、学校の学費。 当の子供は、静かにしていたり、暴れていたり、暴言を吐いていたり、食べ物を吐いていたり、ゲームをしていたり、チャットをしていたり。見えないガラスの囲いに閉じ込められてでもいるかのように、家で空気を呼吸している。 親は、子供の一挙手一投足、そのまなざし、その言葉、そのすべてから、なにかシグナルを読み取ろうとして、神経を集中させる。どんどん先回りして、時にきりきり舞し、時にあきらめ、時に覚悟を決め、時に言葉で切り結んで、そして疲れている。当然のように、親自身の身体の具合も悪くなっている。 親はかなしい。親は、哀れで、そして愛しいものだと思う。親としての自分も、一生懸命だけれど、たぶん、愚かしい・・・。特に子供の何にお金をかけるか、かけないか、毎日のように試行錯誤が続いている。 右往左往しながらやむを得ず、子供に見通しのつかないお金をかけ続けている、とある親御さん。「もうすでに何百万も使いましたけれど、トンネルの先に光がまったく見えません。」とおっしゃった。また別の親御さんは「とりあえずお金を払い込みましたけれど、この道でもダメかもしれません。だって、この前のもダメだったから。でもとりあえず、あの子が生きて毎日何かやっていてくれれば。」と言われた。どの言葉にも、親の思いが詰まっている。 だが、ふと立ち戻って、子供のほうはどうだろうか。親がこれにかけてくれるお金。あれにかけてくれるお金。親の望みが注ぎ込まれたお金。「これをやってみたい」と言うと、半ば言うなりにでてくるお金。これで動き出すか、というすがるようなまなざしのついたお金。ラッキー!と思って無造作に使っているうちはいいけれど、ふと、親に感謝の気持ち、なんて持ってしまうと、親の期待したように動けなかった時には罪悪感という泥沼に陥りはしまいか。がんばれ、といわれても今以上にがんばれない、そんな中で本来は希望の手形であるはずのお金が、ヘドロのように子供の背中に重くのしかかる。と同時に、コレステロールのように親の血管を詰まらせる。 「親の金で遊んでも、ちっともたのしくない・・だけど東京には絶対居たいんでー。」とタバコの煙をスパーッと吐きながら言った彼。「上田学園に、き・ち・ん・と・行くなら東京での生活費は出す。そうでなければ出さないから勝手にしろ。」というのが親からの最後通牒。 どこかに、何か方法はないのか。お金が、親から渡される“想いのヘドロ”にならずに、“ひも付き援助”、にならずに、子供に翼を与えるすばらしい贈り物になる方法が。 |
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