透明人間

 

 

オーストラリア人の友人が学校の先生をしている。彼には学校の先生をしているおじさんやおばさんがいるのだが、彼らはかわいい甥がどんな授業をしているのか、とても気になるらしい。「壁のハエになってあの子の授業を見てみたいわ。」とおばさんはよく言っている。

それを聞いて、私なら透明人間になってその授業を見てみたい、と言いそうだが、英語圏だと、壁のハエになるのかな、とおもしろく思っていた。

透明人間になったら何をする?

こんな問いが英語の時間に発せられた。学生たちは思い思いに答える。女子更衣室をのぞきに行く、といったのは誰だったか。・・・思う存分気ままにする。・・・お菓子を思いっきり食べる。

ひとり、こんな答えがあった。

「さびしくなる。」

透明人間になったらさびしくなる。ひとにその存在を存在として認識してもらえないこと、言葉をかけてもらえないこと、自分の言動、働きかけの痕跡を相手の中に見出せないこと。

職場で、学校で、自分を透明人間と感じているひとがあるかもしれない。あるいは家庭の中でも。自分の心はあるのに、それは痛むのに、相手との間のチャンネルを見出しあぐねているひとが。

透明人間に、人はなりたくてなるのだろうか。自分から関係を途絶えさせることで一休みしたくて。あるいは自分の身を過度の侵入から守るために。それとも、ひとは透明人間にされてしまうのだろうか。他者によって。

 

 

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